大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第16回は、2021年の総決算として、1年間考えていたアイデンティティの問題について書いています。考えるきっかけとなった『花束みたいな恋をした』から、一つの区切りになる『暇と退屈の倫理学』までをヒントにしながら。
私とは何かという問いは、決して池田晶子のような形而上学的な問いであるだけでなく、もっと生活レベルの問いである。今、目の前の苦しみに直結する。立っている地面そのものが今にも崩れ落ちそうだと気づいた時、必死に何かを掴もうとするのは生存本能だ。本稿は、「アイデンティティ」を主題にしているが、それは「本当の私」と言ったようなものを追い求めているわけではない。ただ、どうしたら世界に対して「自分」というものを持つことができるのか探りたいということである。
2021年2月17日、『花束みたいな恋をした』の上映が終わったスクリーンを見つめて、崩れ去ってゆく地面に抗うように必死に座席にしがみつく。言葉を失った。いや、言葉どころではない。自分を失っていた。真っ先に浮かんだ感想は「この世から自分がいなくなった」というものだった。
2021年の2月は、大学1年も終わりかけの頃だったが、大学生になってから何か成長できたことはあったかと言われてみれば何も思い浮かばないという、ひどく精神的に没落した状況にあった。独りでいることに向き合い、ただひたすらに病み、ほとんど行かない大学の課題をなんとなくこなす毎日に、生の実感などなかった。
生の実感とは、居場所と密接に結びついている。高校までは、クラスと部活という半ば強制的な共同体の中に自分の居場所を保持していた。それは、自分は「◯年○組の◯◯である」とか、「◯部の〇〇である」と言ったように客観的な名前をつけてくれた。これはコミュニティによってアイデンティティを築いていたことを意味する。翻って、大学生になってからの生の実感のなさは、アイデンティティの喪失にあり、そしてそれは、コミュニティの喪失にあるのだと考えた。と、書いて仕舞えば一行で済んでしまうのだが、これに至るにはかなりの時間を費やしたのでそこからしっかりと言語化してゆきたい。
2021年2月ごろに遡る。当時は、成人式を前にしてもひどく釈然としない感情に覆われていた。当時書いていたことをそのまま載せておく。解決された問題が多いのだけれど、出発点としてわからないこと”をわからないままにうまく表現できていると思うからだ。