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大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第1回は、2020年前後に感じていたもやもやの正体を探ります。

実態のない釈然としなさ


釈然としない。

この一言がここ最近の自分を覆い尽くしている。何が釈然としないんだろう。ゆっくりと考えてみると、始まりは2019-2020年ごろだった。

僕は音楽を聴きながら散歩をすることが好きで、いつも決まった道順で歩いている。その中でもとりわけ好きなエリアがあって、そのエリアに足を踏み入れると胸が高鳴ると同時に締め付けられる。まさに「ここじゃないどこか」にいると感じるのだ。ノスタルジーに浸り、全身でいわゆる「エモさ」を浴びる。僕にとって「ここじゃないどこか」とは心が「ここではないどこか」にある状態を指すように感じる。よくよく考えてみると、好きな散歩コースを歩いている時も、心はそこにいない。「ここではないどこか」にいるし、恋をしている。もっと身近な言葉では次のような言葉でも表現できる。

「まるで映画の中みたい」

きっと僕は、散歩の道中「映画の中」にいるんだ。「感情さえも引用」とはうまくいったもので、映画や音楽の力を借りて感情を増幅させている。ただ、このことについて考えていると、大きな疑問に辿り着いた。

「まるで映画の中みたい」だから何?

「まるで映画の中みたい」なことと、エモには何の因果があるのかと言うことだ。そして、よく考えてみると、僕が感じるエモは総じて「まるで映画の中みたい」という言葉に集約されてしまうのだ。

僕はずっとこのエモを追いかけて生きてきた(だから散歩が好きだった)し、このエモの正体を考えることで将来やるべきことが見えてくると確信していた。だけど、そのエモの正体は「ここではないどこかへの恋」だし、「まるで映画の中みたいな気分に浸ること」でしかなかった。その先には何もなかった。この瞬間、僕は人生の道標を失った気がした。きっと2019年冬。

エモを追いかけている一方で、僕はAMラジオに出会った。当時は浪人期で自分があまりに頼りなかったので、外に頼るしかなかった。だから僕は、エンタメに全身を預けた。ラジオ番組を好きになるとパーソナリティのことが無条件に好きになる。当然逆も然り。こうして、ラジオパーソナリティは僕の心の大部分を占めるようになった。先ほど言ったみたいに当時の僕は、内に頼れるものを見つけられなかったので、円グラフがあるとしたら、「僕」を形成する要素に「僕」という項目は存在せず、ラジオパーソナリティがその大部分を占めているような状態だった。これらは、後から振り返ってわかることで、当時は無自覚だった。いつも聞いているパーソナリティが今日、この時間も生きて頑張っているんだなと想像するだけで、自分が生きる活力になった。

そして、先のようなことに気づいたのも、いつもの散歩コースを歩いているときだった。なんの拍子かわからないけれど、「そのパーソナリティに会いたいか?」という疑問を抱いた。答えは「会いたくない」。少なくとも、今は会いたくない。理由は「相手は僕のことを知らないから」。僕は相手にすごく助けられて、すごく力をもらって、もはや人生の一部だとさえ思っていきているけれど、相手は僕のことを知りもしない。

なんて、アンバランスな関係なんだ。今、会ってしまうと「与えるもの」と「与えられるもの」、「ファン」と「スター」という関係が浮き彫りになってしまう。僕にとって彼らは人生の一部だけど、彼らの中に僕は存在していないんだ。この事実にひどく絶望した。もちろん、認知されたいという欲求はあったのだろうが、それは大した理由ではなかった。僕が絶望した理由は、「一方通行の愛情が僕の構成要素の全て」という事実だった。この愛情の先には何もない ということを初めて自覚した。そんなものだけで構成された自分はとても不安定なものなのだと気づいた。

アイデンティティの不安定さ