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大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第22回は、「瞬間的な快楽」というキーワードから、なぜ快楽を得ようとしているのか?興奮しようとしているのか?について考えました。

前回、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』と乃木坂46の『10th YEAR BIRTHDAY LIVE』によって提起されたサプライズとの向き合い方について考えたところ、「瞬間的な快楽」というキーワードに行き着いた。

私はここのところ、ずっと自分は興奮できることを探しているのではないか?と思うようになってきた。まるで自分の状態が、興奮している状態と興奮していない状態のふたつしかないようで、さらにそれを「興奮している状態=楽しい状態」「興奮していない状態=つらい状態」として捉えてしまっているのではないかと。特に後者、「興奮していない状態=つらい状態」は不健康だ。興奮していない状態は興奮していないだけであって決してつらいわけではない。しかし、それを”つらいと勘違い”しているのだ。この問題について考えてみたい。最終的には”興奮していないこと”に耐えられるというか、気にしなくなることが目下の目標である。しかし、興奮していない状態につらさを感じるということを、興奮していない状態から考えるにはどうも付け焼き刃的な解決策しか浮かんでこない。そこで、まずは興奮している状態から考えなければならない。興奮や快楽について考えるとき、加速度が重要な要素になることは前回述べた。今回は、なぜ興奮しようとしているのか、このことについて考えたい。現時点では、何かしらの孤独感やつらさから目を背けるための興奮・快楽を求めてしまっている時があると考えている。

そこで今回は、まず、その孤独感というか釈然としなさについて「対自分」と「対人」の側面から確認してみたのち、その内容とちょうどこの1ヶ月読んでいた『<責任>の生成 中動態と当事者研究』に、重なる部分があったので、その力を借りてなぜ興奮しようとしているのかを考える。

<責任>の生成:中動態と当事者研究 - 新曜社

「みる」「する」「いる」


https://open.spotify.com/episode/3Dd4DEZmlCnoEFXTC4u7Xb?si=5GcZ5rMTRCeP3TInNvBIuQ

まずは、対自分について。

ここ最近、「ずっと興奮していたいこと」について考えている。